尖閣諸島は海鳥の重要な生息地

11月上旬、野鳥の重要な生息地である尖閣諸島を取材するため、尖閣諸島の行政区域である石垣島を訪ねました。

尖閣諸島の開拓は1896年、古賀辰四郎氏が古賀商店八重山支店をこの地に開店し、鰹節の製造、アホウドリの羽毛採取などの事業を行なったことに始まります。彼の死後、息子に事業が継承されたものの、1940年に事業が中止され、無人島となり、今に至ります。

しかし、自然環境の学術調査は、時折り行なわれてきました。1900年に始まり、戦後だけでも15回を数えます。センカクモグラ、セスジネズミをはじめとする固有の小型哺乳類や、希少なセンカクオトギリ、センカクツツジなどを含む約560種の植物、また、センカクコギセル、アツマイマイなど固有の陸産貝類が確認されています。


クロアシアホウドリのペア(南小島,1971年)

重要野鳥生息地にも登録されている

尖閣諸島には以前から数多くの野鳥が繁殖しており、鳥類を指標に世界共通基準で選定されたIBA(Important Bird Areas)にも登録されています。

1953年から1980年の間に、6度の上陸調査をした尖閣諸島文献資料編纂会の新納氏に伺ったところ、53年当時、北小島ではアジサシ類が多く、なかでもセグロアジサシは約100万羽が生息し、南小島ではカツオドリが多く、約50万羽が繁殖していました。しかし年数を経るにつれ、海鳥の数は極端に減っていきました。その要因のひとつに、台湾漁民が頻繁に上陸し、海鳥の卵を採取していたことがあります。

また南小島、北小島のアホウドリも、1891年以降、伊豆諸島の鳥島同様に乱獲され、1897年から1907年の11年間に105万羽分の羽毛が採取されたという記録が残っています。1909年には魚釣島、久場島でのみ細々と繁殖していることが報告され、39年以降は生息が確認されず絶滅とされました。しかし、71年になって南小島、北小島で再発見され、徐々に回復し、現在に至っています。2005年の推定は約250羽とされています。

尖閣諸島の将来の方向性

石垣市長の中山氏に尖閣諸島の将来について伺ったところ、島に残る貴重な自然は保護していく必要があるとのことでした。とくに魚釣島は、ヤギの食害による植生の消失と裸地化、土砂の流出が起きています。数百頭のヤギは1978年に持ち込まれた雌雄2頭に起因するものと考えられていますが、植生への重大な被害を食い止めるためには、今後、駆除も視野に入れるとのことでした。

そして将来的には、国際的な見地から何らかの保護区に指定し、保全を進めていきたいという構想でした。石垣市議の仲間氏からは、優れた自然を観光資源として活かし、観光船からの海鳥観察や漁業のブランド化を目指していきたいという考えを伺いました。

尖閣諸島は、貴重な自然が残されている場所です。国境に関係なく海上を自由に行き交う海鳥にとっては、重要な繁殖地でもあります。この島の自然の現状を知り、守っていくには、国境の枠にとらわれない国際的な機関やNGOの協力による学術調査や保護活動が必要です。


海鳥の卵を採る台湾人(北小島,1968年)

尖閣諸島の主な年表
1884 …古賀辰四郎が、尖閣諸島を探検
1891 …伊沢矢喜太が魚釣島、久場島でアホウドリの羽毛を採取
1895 …閣議で沖縄県所轄として標杭を立てることを決定
1896 …古賀商店が八重山支店を開店
1900 …古賀辰四郎の依頼により、東京帝国大学理科大学が調査
1931 …古賀善次が4島の払い下げを申請し、翌年許可される
1940 …古賀善次が事業を断念し、無人島となる
1972 …沖縄返還協定が発効され、尖閣諸島を含む南西諸島全島が返還される
2010 …中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件発生
2012 …国有化

尖閣諸島周辺の漁業問題
戦後の尖閣漁業は、台湾へ渡った先島(さきしま)漁民がさきがけとなりました。1990年代までは中国、台湾との漁業上のトラブルはありませんでした。その後、カツオの1本釣りからマグロはえ縄漁に漁法が変わり、台湾漁船が日本漁船のはえ縄の上に縄を入れたり、網を切ったりするようなトラブルが発生しはじめました。


※高良(1969)、 尖閣諸島文献資料編纂会(2011)より作成。●は以前の記録がある種


草地で営巣するオオアジサシ(北小島,1971年)

《参考資料》尖閣諸島文献資料編纂会.2011. 「尖閣研究」.尖閣諸島文献資料編纂会.那覇.高良鉄夫.1969. 「尖閣列島の海鳥について」.琉球大学農学部学術報告第16 号.1-11

(写真/新納義馬)