
文・写真 川那部真(国際センター)
はじめに
2000年7月18日の早朝、日本野鳥の会と北海道大学からなる「北方四島・海獣と鳥類専門家交流団」の団員35名を乗せたロサルゴサ号は、北海道根室港をゆっくりと出航した。ロサルゴサとは聞き慣れない名前だが、ハマナスの学名Rosa
rugosa であると船員の方から聞かされたのは、出航後しばらくしてのことであった。目的地は国後島、日本人にとっては近くて遠い北方領土の島である。
ビザなしでの北方領土への訪問は、私たち日本野鳥の会にとって1998年以来2度目である。前回の訪問では、色丹島と択捉島に上陸して鳥類の調査を行ったが、今回の訪問地はシマフクロウが多数生息するという国後島だ。訪問のおもな目的は、国後島の鳥類相とその生息環境の調査、国後島・色丹島・歯舞諸島を管轄するクリリスキー自然保護区職員との情報交換、そして会員の皆さんがご寄贈下さった双眼鏡を現地の学校と自然保護区へ届けることであった。なお北海道大学のグループは、択捉島・国後島・色丹島を船でまわり、船上からクジラやラッコ、アザラシなどの海獣類を調査するため、私たちとは別行動をとった。
北方領土には、日本が数十年前に経済発展と引き替えに失ってしまった豊かな自然が手つかずのまま残されている。とくに国後島は、全土の61%が森林に被われ、河川にはサケ科をはじめとする魚類が多いため、それらを捕食するシマフクロウやヒグマの生息密度も非常に高いという。日本人にとって、世界中で最も行くことが困難な地域である北方領土。今回は、その中でも国後島の豊かな自然と自然保護区の現状について報告する。

図:北方四島と自然保護区
国後島の自然環境
総面積1,499平方キロメートルの国後島は、北方四島の中では択捉島に次ぐ大きさの島である。島の北東部には最高峰のちゃちゃだけ爺々岳(複式火山で標高1,822メートル)がそびえ立ち、中部には羅臼山(標高888メートル)、南部には泊山(標高542メートル)と山が連なる。そのため平坦地が少なく、集落はふるかまっぷ古釜布や泊など沿岸部のわずかな平地に集中しており、大部分は道路や人工建造物のない自然状態に置かれたままである。大きな河川はないが、山間部から流れ出た水は急で短い多くの渓流をつくって海に注いでいる。湖には東沸湖、ニキショロ湖、一菱内湖などがあり、古釜布周辺や最南端のケラムイ岬には湿原が発達する。森林はエゾマツやトドマツなどの針葉樹林が主体であり、北海道で普通に見られるミズナラやハルニレなどの広葉樹は少ない。林のない場所にはチシマザサが優占し、日本時代の開拓や森林伐採により草地化している場所もある。沿岸部では、ハマナスの大群落をあちこちに見ることができる。

写真:海岸にはハマナスの大群落が広がる。植古丹の海岸で
今回、私たちが訪問したのは古釜布周辺の沿岸部と東沸湖周辺、そして最南端のケラムイ岬である。古釜布周辺の沿岸部と東沸湖周辺の樹林にはシマフクロウが複数生息し、ケラムイ岬ではタンチョウが繁殖するという。自然保護区のグレゴリエフ区長やレンジャーの皆さんと寝食を共にしながら、のべ10日間にわたって鳥類相とその生息環境を調査した。
国後島とその周辺の野鳥たち
北方四島の鳥類相は、これまでの様々な調査により、北海道と類似したものであることがわかっている。しかし沿岸部には、いまや日本国内ではほとんど見られなくなったエトピリカなどの海鳥の大規模繁殖地が存在し、国後島にはシマフクロウが高密度で生息するなど、原生的自然と豊かな鳥類相が開発の影響を免れて残っている。
今回、私たちが訪れた国後島でも、その一端をかいま見ることができた。10日間で確認できたのは90種(国後島と色丹島の周辺海上を含む)、その中にはもちろんタンチョウやオジロワシ、シマフクロウ、エトピリカなども含まれている。
古釜布周辺の沿岸部河川沿いや東沸湖周辺ではシマフクロウの足跡、羽毛、食痕などを数カ所で確認することができた。また、コマドリやルリビタキなど森林性の鳥、ヒバリやシマセンニュウなどの草地性の鳥など、様々な種が観察できた。しかし、森林は大部分がエゾマツやトドマツなどの針葉樹であり、北海道のようなミズナラ、ハルニレ、ヤチダモなどの広葉樹林はほとんど見られなかった。針葉樹の巨木の森には、ヒグマの足跡や糞がいたるところにあり、私たちは熊の通り道を歩いて森の中を移動した。ところで、東沸湖周辺では、自然保護区の監視小屋に寝泊まりしながら調査を行ったが、それは少し前に報復のために密猟者により放火されていた。急きょ補修した小屋に泊まりながら、自然保護区と密猟者とのせめぎ合いの一端を見る思いがした。

写真:東沸湖岸。この周辺はシマフクロウの生息地となっており、団員が足跡を観察中
ケラムイ岬は、国後島で唯一のタンチョウ繁殖地として知られており、現在のところ2つがいが確認されている。また、ケラムイ岬のタンチョウは、標識調査により北海道との間を行き来していることが知られている。今回は、足環までは確認できなかったが、成鳥を1つがいと数年間にわたって使用していると思われる古巣を観察することができた。
国後島の鳥類を調査して、印象深かったのは、オジロワシやミサゴなど魚食性猛禽類の生息数が多いことである。これは、生息や営巣に適した環境が十分に存在する上に、餌となる魚が豊富であり、また魚の生息地である河川や湖沼、海の環境も良好であることを示すものである。つまり、国後島には猛禽類を頂点とした、健全な生態系が機能しているのである。
陸上の調査とは異なり、船上からの海鳥調査は、時間や天候の都合であまり十分にできなかった。しかし、ケイマフリそしてエトピリカの個体数の多さには驚くばかりであり、クジラやアザラシなどの海獣類の豊富さとともに、海にも豊かな生態系が広がっていることを実感した。
北方四島の自然保護区
北方四島のうち、国後島・色丹島・歯舞諸島はクリリスキー自然保護区が管轄している。とくに国後島は、北東部と南西部が国立クリリスキー自然保護区に指定され、やや規制が緩い緩衝地帯を含めると島の半分以上が保護区である。自然保護区内は、職員だけが駐在して自然環境の監視に当たっている。したがって、道路や建物の建設、伐採等の開発行為はもちろんのこと、一般人の立ち入りも一切禁止されている。さらに沿岸1〜3マイルは、海洋保護区として船舶の立ち入りと網漁が禁止される。このように、生態系保護のための規制は、「人為的影響の完全排除」という考えが根底に流れている。
一方、色丹島の半分と歯舞諸島は国立マーリェ・クリリスキー生物保護区に指定されており、国後島に比べると規制は緩いものの、狩猟や漁業、農薬使用、鳥類営巣地への立ち入りなどが禁止されている。択捉島は、国立の自然保護区はないが、サハリン州立オストロヌブイ自然保護区に指定され、独自の保護が行われている。
ロシアの自然保護制度は、生態系を守るという観点では、日本とは比べ物にならないほど徹底している。国立クリリスキー自然保護区の場合、かつては自然を守るためにレンジャーや研究者などの専従職員が100名近く配置され、徹底した管理を行っていた。今日、北方領土に驚くほどすばらしい自然が残されているのも、強力な法制度の存在とそれを守ってきた職員の努力によるところが非常に大きい。しかし、最近のロシアの経済状況は厳しく、職員と予算の大幅削減により自然保護区は事実上ほとんど機能していない。それに伴い、密猟や漁船の違法操業などが横行し、ヒグマ(熊の胆や毛皮目的)やラッコ(毛皮)などが犠牲になるとともに、サケ、マス、カニ、ウニなど魚介類が不法に採取されている。また、漁網を使った違法操業は、魚介類と同時にエトピリカやケイマフリなど海にすむ鳥を大量に混獲してしまうため、海鳥にとっても大きな脅威となっている。

写真:海岸に打ち上げられたトロール網。多くの海鳥が網にかかって犠牲となる
自然保護区の職員そして住民の方々と交流して
私たちの北方領土訪問には、自然環境調査に加えて、もう一つの大きな目的があった。それは、自然保護区の職員や住民の方々と対話し、お互いに理解を深め合うことで領土問題解決に向けての環境整備を図ろうというものである。日本政府が許可する北方領土専門家交流が、原則として日露両国民の交流を名目としているからである。
自然保護区の職員の方々とは、調査で寝食を共にしながら、北方領土の自然について様々な話をした。その中で終始一貫して感じられたのが、彼らは自分たちが住む島の自然をこよなく愛しているということだった。財政難を始めとする多くの困難の中で、常に密猟者の襲撃の危険にさらされながら、懸命にタンチョウやシマフクロウ、エトピリカを育む島の自然を守ろうとする真摯な姿は、ともすれば忘れがちになる自然保護の原点を再認識させられるものであった。
また、地域住民の方々との対話集会では、80名を越える参加があった。活発な議論が交わされ、一般の方々も島の自然に強く関心を持たれていることに驚きを感じた。そしてとくに印象深かったのは、子どもたちが日本の動物園の様子をしきりに質問したことだ。朝早くから、会場の入り口で待っていた小学生もいた。もちろん、北方四島に動物園はない。国後島の子どもたちからすれば、日本は何でもある「おとぎの国」なのかもしれない。

写真:交流会に参加した住民の皆さん。
約80名が集まり、日本からの訪問者と国後島の自然保護について活発な議論を交わした
本会と自然保護区とのより一層の協力に向けて〜あとがきにかえて〜
私たちは、1992年のプロジェクト開始以来、自然保護区の方々との情報交換を進めてきた。その中で、四島の自然や自然保護区のおかれている状況が明らかになり、私たちなりに協力できることを模索してきた。一般向けに作成したクリリスキー自然保護区のパンフレットは、私たちにとって一つの小さな結晶である。

写真:本会の協力で作成されたクリリスキー自然保護区のパンフレット。
おもな動物の生息状況が簡潔に解説され、一般の方々がロシア語で読める唯一の手引書となっている
今後とも、本会は自然保護区との経済的・技術的協力関係を強化し、北海道から北方四島、カムチャツカ半島、アラスカを結ぶ渡り鳥の渡りのルート、いわゆるフライウエイに沿った保護区ネットワークの形成と保全に努めていく予定である。
最後になったが、今回の訪問では外務省、総務庁、環境庁、北海道庁の担当の方々に大変お世話になった。また、日本野鳥の会の道内各支部には様々なご支援を頂き、本会会員の島崎芙美子さんにはロシア側とのやりとりに際してボランティアで翻訳をしていただいた。第2回の訪問実現には、特に岩垂寿喜男副会長のご尽力に負うところが大きい。紙面を借りて、あらためて厚くお礼申し上げる。
日本野鳥の会関係交流団員氏名
藤巻裕蔵 帯広畜産大学教授、本会十勝支部長(合同交流団副団長)
川那部真 (財)日本野鳥の会国際センター
金井 裕 (財)日本野鳥の会研究センター
川崎慎二 根室市春国岱原生野鳥公園
佐藤文男 (財)山階鳥類研究所
西島房宏 (株)プロダクション未来(映像記録)
双眼鏡のご寄贈ありがとうございました!!
ロシアの財政難は、北方四島の自然保護区や小中学校にも大きな影響を与えています。自然環境を調査したくても、また環境教育を行いたくても観察道具が不足しています。そこで、本誌1999年1月号で「北方四島へ双眼鏡を!!」と題して会員の皆さんに双眼鏡をはじめとする調査機材のご寄贈をお願いいたしました。その結果、実に54名の方から双眼鏡57台、望遠鏡5台、三脚3台、カメラとレンズ19台、ストロボ1台、タイプライター1台をご寄贈いただきました。これら皆様からのご厚意の品々は、今回の渡航で日本野鳥の会が自然保護区と小中学校に責任を持って届けてまいりました。自然保護区の職員および小中学校の先生方は、皆様のご厚意に対して大変感謝し、また喜んでいらっしゃいました。私たちからも、ご厚意を頂きました皆様にあらためて厚くお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

写真:ロサルゴサ船上での双眼鏡贈呈式
(左から、自然保護区イリーナ研究員、グレゴリエフ区長、藤巻副団長)

著者近影
国際センター・川那部 真
日本野鳥の会機関誌『野鳥』 2000年11月号より
Copyright (C) 2000 WING, Wild Bird Society of Japan
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