横浜自然観察の森が生まれたころのこと
2026年、開園40周年を迎えた横浜自然観察の森。その誕生までには、開園前から多くの団体や個人の皆さんの支えと協力がありました。ここでは、開園当初の様子や忘れられない出来事について、初代チーフレンジャーの川村研治さんにお話をうかがいます。40年という長い歳月を経た今、川村さんはどのような思いを抱いているのでしょうか。
2026年9月10日
文・川村 研治(学習院大学法学部非常勤講師、横浜自然観察の森・初代チーフレンジャー)
福島市小鳥の森から横浜自然観察の森へ
1986年1月のある夜、私は福島市小鳥の森でハレー彗星を探していました。小さくぼんやりとした光のかたまりを望遠鏡で見ると、長い尾を引くほうき星が姿を現し、皆で大喜びしたのを思い出します。ハレー彗星が日本から見えなくなるころ、私が横浜に転勤することを知っていたボランティアの人たちが集まってくれていたのでした。

開園当初の福島市小鳥の森ネイチャーセンター(写真:福島市小鳥の森)
当時、福島市小鳥の森には日本野鳥の会のレンジャーが3名、常駐していました。ところが1985年半ばに欠員が生じ、次のレンジャーが着任するまでの半年だけ私が働くことになったのです。チーフレンジャーの弦間一郎さんは人望が篤く、利用者、ボランティア、市の方から信頼を得ていました。ひげの仙人こと高橋重一レンジャーはサンクチュアリの雑木林を支えていました。二人のおかげで新米レンジャーの私もすぐにボランティアの方々と親しくなり、一緒にバードウォッチングやスキーに出かける関係になっていたのです。
1983年にオープンした福島市小鳥の森は、日本で初めて地方自治体が設置したサンクチュアリです。里山の維持を目的とした点でも画期的でした。当時の福島市長は、子どもの成長には豊かな自然体験が必要との考えをお持ちでした。ウトナイ湖サンクチュアリのような施設を福島市にも作りたいと切望し実現したと聞いています。あらためて、日本野鳥の会が始めたサンクチュアリ運動のインパクトの大きさを実感したのでした。
半年間だけでしたが、福島市小鳥の森で勤務する機会が得られたのはほんとうに運が良かったと思います。市から受託した現場経営のノウハウを体得する場となったばかりでなく、横浜自然観察の森で役立つ里山管理や教育活動に役立つヒントがたくさんありました。
開園ポスターの衝撃
1986年3月、横浜に到着した私を上司の小河原孝生さん(現・(株)生態計画研究所)が待っていました。横浜自然観察の森の基本構想から基本計画を策定した中心人物です。当然、開園準備も彼が担当していると思い込んでいたのです。ところが「横浜市の担当者と一緒に開園準備をしてくれ」と言われたのにはびっくりしました。それまでの経緯はほとんど聞いていません。「横浜市の人が良くわかっているから心配いらない」と言われても安心できるはずがありません。
開園準備は緑政局緑政課緑政係長の中林博志さんが陣頭に立って作業の最中でした。中でも活躍していたのが六浦勉さん。植物や昆虫について豊かな知識をお持ちでした。開園記念展示や行事も六浦さん自身が企画・作成・運営を担っていました。「開園のポスターを作った」と見せてくださったのは自筆の水彩画に文字を入れた作品でした。ウソが枝にとまり、コサギの足元にはママコノシリヌグイが咲いています。茎に生えているトゲトゲの激しさでわかります。図鑑の絵のように正確で上手な絵ですが、季節や環境を考えると変です。どうコメントして良いか戸惑っていると、六浦さんが笑って言いました。「これは、横浜自然観察の森を象徴している。ウソとサギにだまされて継子扱いされている。それを俺たちが尻拭いしているという絵だ」。予算をつけるために交渉を続けたが、最後にひっくり返されて開園記念の展示物やポスターを手作りしなければならなくなり、その恨みを絵に託して表現したというのです。
これを聞いて逆に安心できました。横浜市緑政課には、緑地保全のプロだけでなく展示物やポスターの手作りも厭わない職人がいるとわかったのです。民間団体である日本野鳥の会と横浜市。立場は違っても、目指す方向性が同じだとわかれば、お互いの強みを生かし、弱点を補い合う関係を作ることができます。
開園前日の深夜に及んだ展示物が完成したときにはホッとしました。それも束の間、当日は季節外れの大雪に見舞われ、市職員とレンジャーが一致団結して雪かきをしたことが生涯忘れられません。

開園記念展示(1986年)

開園当初の「ブラックボックス」展示
手作り展示に宿る未完の力
開園後の企画展示も当初はレンジャーが手作りしました。年に4回の展示更新は骨の折れる作業で、手書きの木製パネルに写真を貼っただけの展示物を思い出すと、未熟さに赤面するばかりです。
やっているうちに、企画を考え、展示物として形にするのが面白くなりました。一般的な展示物は、完成と同時に劣化と陳腐化が始まります。立派な機械や道具を用いた展示物は修繕やリニューアルに費用がかかるのです。残念なことに、行政が設置する施設の多くは開園の年に一番たくさん予算がついて、年とともに減額されます。立派すぎる展示物の維持費が行事や保全の費用を圧迫するならば本末転倒。むしろ、100%の完成を目指さず、レンジャーやボランティアが手を加えながら完成度を高めて行く方が効果的です。
私が製作した展示物を例にとると「横浜市ガリバーマップ」があります。横浜市全体の航空写真を貼り合わせた巨大なパネルで、家の一軒まで読み取れます。そこに、自然情報を付せん紙に書いて貼ります。展示物を通して、個人の知識が広く共有される仕掛けです。自慢話のようで恐縮ですが、半完成で提示し、来館者やボランティアが完成させる展示物のわかりやすい例として紹介しました。

ガリバーマップの展示を解説する友の会ボランティアの中塚隆雄さん
展示物は歴代のレンジャーが創意工夫を重ね、大屋親雄チーフレンジャー時代にレベルアップしました。現在の展示の理念や技術の中にも彼の遺産が生きています。

大屋レンジャー

大屋レンジャー時代の「さわる展示」(1997年)
友の会の発足

友の会のタカの渡り調査(1990年9月)
福島市小鳥の森は、ウトナイ湖サンクチュアリの伝統を受け継いでたくさんのボランティアが活動していました。横浜自然観察の森も、開園前からたくさんの団体が関わっています。主な団体だけでも、日本野鳥の会神奈川支部、横浜植物会、神奈川昆虫談話会、横浜ホタルの会、横浜フィールドを歩こう会(日本自然保護協会の講習を受講した自然観察指導員が結成したグループ)などです。園内の植物や昆虫の調査、開園記念行事の企画・運営などさまざまな形で関わっていただきました。横浜自然観察の森は、さまざまな団体が交流し、協力しあうプラットフォームとしても構想されていたのです。

探鳥会で解説する友の会メンバー(中里幹久現事務局長1995年10月)
横浜自然観察の森の周辺には、自然観察の理念を確立し、技能を磨いて普及に尽くしたリーダーがいました。(財)日本自然保護協会常務理事の金田平さん、理事の柴田敏隆さん、そして平塚市博物館学芸員の浜口哲一さんです。横浜自然観察の森友の会の設立のときも陰日向でお世話になりました。設立準備会では、(財)日本自然保護協会(当時)の職員で県立宮ヶ瀬ビジターセンターの初代レンジャーとなる森美文さんがご尽力くださいました。
友の会を立ち上げることについては反対する人はいません。問題は運営体制です。関係団体が「野鳥部会」、「ホタル部会」、「植物部会」、「昆虫部会」、「自然観察部会」などを立ち上げ、それぞれの担当者を立ててくださるのが理想です。けれど、多くの団体は、新しくできた友の会のために働く余力がありません。困っていたとき手を差し伸べてくださったのが日本野鳥の会神奈川支部。若手として期待されていた秋元文雄さんが会長を引き受けてくださいました。秋元さんは自らフクロウの調査・保護を目的としたプロジェクトを立ち上げた他、いろいろな行事にも率先して貢献してくださったのがほんとうにありがたかったです。他の活動は、やりたいことのある人が手を上げて、協力者を募るプロジェクト運営方式を採りました。必要に応じて専門の団体に協力を仰ぎます。例えば、ホタルの生息地保全や観察リーダー養成であれば、横浜ホタルの会の丸茂高さんにご指導いただくといった具合です。
神奈川支部との関係は他にもあり、1984年に始まった運営準備会に支部の役員として参加されていた田丸義夫さんが、開園後も継続して探鳥会のリーダーを務めてくださったのも心強いことでした。
木を伐ることと木を生かすこと
カブトムシ、クワガタムシが生息する里山の森は、人間が下草を刈り、定期的に木を伐採することによって維持されます。福島市小鳥の森では高橋レンジャーが山に手を入れ、炭窯まで作りました。横浜自然観察の森には「クヌギの林」というエリアがあります。荒れ地に盛り土をしてクヌギやコナラの苗を植え、成長したら伐採して利用するという、20~30年先を考えた管理方針に基づき、実施体制と作業を具現化することが課題でした。

開園当時のモンキチョウの広場

開園当時のクヌギの林(1986年)
伐採した材を加工する技術の習得のために、神奈川県林業試験場(当時)の中川重年さんらの協力を得て、ボランティアやレンジャーを対象とした「チェンソー塾」を開催しました。このときに作ったピクニックテーブルはしばらくの間、ネイチャーセンター前のモンキチョウの広場で使われていました。その後に一般参加者向けのイベント「木の遊び場を作ろう」では、親子が参加して、伐採からシーソーなどの遊具作りまでをやりました。

「木の遊び場を作ろう」は間伐材を遊具に加工した(1988年9月)

炭焼き作業の様子。山口博一さん(中央)、箱田レンジャー(右)
横浜自然観察の森で初めて炭を焼いたのは、レンジャーの京極徹さん(現・(公財)日本環境教育フォーラム)です。キープ清里サンクチュアリが開催した研修に参加し、炭窯を用いない「伏焼き」の技術を習得。横浜自然観察の森で実験しました。その後、同じ区内で炭焼きの技術を継承されていた鎌倉市緑の学校の宮沢敏雄さんの指導を受けて本格的な炭窯を築き、炭焼き技術を学ぶことができました。木の伐採、加工、炭焼きの技術は雑木林ファンクラブに受け継がれ、今では友の会の最も活動的なプロジェクトの一つです。40年の歳月を経て、クヌギの林に植えた苗木が大きく育ち、伐採された切り株に芽が生えているのを見たときには万感迫る思いでした。

クヌギの林にて。切り株からの萌芽(2024年)
おわりに
昔のことを思い返すと、横浜自然観察の森はウトナイ湖サンクチュアリや福島市小鳥の森で培った歴史や経験がなければ生まれていなかったという思いを強くします。開園後もたくさんの人に助けていただきました。私個人は恩返しができていませんが、これからも関係する人たちと協力関係を保ち続け、環境保全と環境教育を発展させていただきたいと願っています。
ハレー彗星は、2023年に太陽から一番遠い地点を折り返し、再び地球の方に向かっています。2061年、横浜自然観察の森に自然を愛する多くの仲間が集い、ハレー彗星の飛ぶ夜空を見上げる日が来ることを期待しつつ筆を置きます。
PROFILE

川村 研治(かわむら けんじ)
学習院大学法学部非常勤講師、横浜自然観察の森・初代チーフレンジャー
法政大学社会学部在学中、環境論ゼミで鳥類センサスを担当。ゼミの先輩である安西英明氏の指導を受けたことをきっかけに野鳥観察に目覚める。卒業後は文部省(当時)に入省するが、横浜自然観察の森のオープンをきっかけに(財)日本野鳥の会に転職。日本野鳥の会退職後、環境情報センター職員、環境教育NGO職員、大学教員などを歴任。バードウォッチングは変わらぬ趣味として継続中。
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